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其の79 武将萌え~戦国武将が愛したお酒~

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 NHKの大河ドラマ「天地人」の影響からか、戦国武将のブームが続いているようです。鎧兜や家紋、歴史などに詳しい歴女(れきじょ)、歴士(れきし)なる言葉も生まれ、一大ブーム到来でございます。戦国武将と言えば、豪快で力強いイメージ。鎧兜に身をかためて、豪快な酒を飲んだような想像をしてしまいますが、実際はどうだったのでしょうか?ちょっと歴史をのぞいてみましょう。

敵の頭骨を盃がわりに 織田信長【1534~1582】

 ルイス・フロイス(1532~1597 イエズス会員で宣教師)が著した『日本史』の中で、信長については「長身、痩躯で髭は少ない。声は甲高く、常に武技を好み、粗野である。酒は飲まない。」などと記されているのですが、信長が催した酒宴の記録も数多く、酒好きであったと書かれている文献も多く見られます。実際のところ、酒豪だったのか下戸だったのかはよく分りません。

 そんな信長の酒宴で有名なのが、1574年の元日に催された酒宴です。 宿敵である浅井・朝倉両氏を滅ぼした信長は、家康や重臣たちを岐阜城に招いて盛大な宴会を催しました。宴も佳境に入った頃、「皆に見せたいものがある」と言って、運ばせたのが浅井久政・長政父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に漆を塗って金粉をまぶした髑髏杯。 「この髑髏たちは酒の肴に最高であろう。」と髑髏杯に酒を注ぎ、上機嫌で豪快に飲み干したと言われています。(実際には使用されなかったとの説も。)

軍神、酒に倒れる 上杉謙信【1530~1578】

 「戦国の神将」とまで言われた上杉謙信。戦にめっぽう強く、川中島の合戦において、宿敵武田信玄の本陣に単騎斬り込むといった離れ業(作り話との説も)をやってのけるなど、軍神の名に恥じない豪傑ぶりで知られています。

 謙信が豪傑なのは戦だけではなく、酒のほうもかなりいける口だったようです。基本的に肴はとらず、とったとしても味噌か梅干し程度だったと言われています。大勢で飲むのを嫌い、一人で静かに杯を傾けていたとの記録もあるようです。「馬上盃」と称される、直径12㎝前後の大盃が遺品として残されていたり、画家に自分の後姿として盃を描かせたりと、酒に関するエピソードには事欠きません。

 そんな謙信の死因は残念ながら、酒が原因との説が有力です。1578年3月春日山城内の厠で、脳出血で倒れたのですが、日頃の大酒と、肴をとらない飲み方、短慮で激しやすい性格により、高血圧に陥っていたであろうと推測されているようです。さすがの軍神も、不摂生にはかなわなかったということなのでしょうか。

 七尾城攻略の際に、直江兼続が聞き取って書きとめたという謙信の辞世は「一期の栄一盃の酒/四十九年一酔の間/生を知らずまた死を知らず/歳月ただこれ夢中のごとし」というもの。「わが四十九年の生涯は一睡の夢であり、一代限りの栄華であり、一杯の酒にすぎない」という人生の儚さをうたった詩にも、「酒」の文字が見られ、謙信がどれほど酒を愛していたかがうかがえます。

本能寺の変の陰にアルハラあり? 明智光秀【1528?~1582】

 織田信長の家臣で、豊臣秀吉と双璧をなした明智光秀が謀反を起こし、主君である織田信長を討ったのが、かの有名な本能寺の変(1582年)です。「敵は本能寺にあり」のセリフはあまりにも有名。

 ではなぜ光秀は謀反を起こしたのか?さまざまな推測がなされておりますが、真実はわかりません。しかし、意外に根強いのがアルハラ(アルコールハラスメント)による怨恨説だというから驚きです。
①信長が下戸の光秀に酒を強要したところ、光秀は切に辞退を申し出た。すると信長は「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けた。
②同じく酒席で光秀が中座して、しばらく戻ってこなかった。やがてまた現れたとき、「このキンカ頭(禿頭の意。信長流の洒落だった? 「光秀」の「光」の下の部分と、「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることから)」と信長に怒鳴りつけられ、頭に槍先を突き付けた。

 アルハラ以外の非情な仕打ちへの怨恨としては、丹波攻めで人質にした光秀の母親を信長が見殺しにしたというもの。武田家を滅ぼした徳川家康への饗宴の席で、光秀が用意させた料理を「腐っている」と信長が因縁をつけ、足蹴にしたというものもあるようです。 ただ単純に光秀が天下を取りたいという野望による謀反との見方もあるようです。しかし、本当にアルハラが本能寺の変の隠された真実だとしたら、酒が歴史を動かした。一杯の酒の力、恐るべし。

これぞ誠の黒田武士 母里太兵衛【1556~1615】

 「♪酒は飲め飲め 飲むならば~」で始まる黒田節はあまりにも有名です。この黒田節にも戦国武将の酒にまつわるエピソードがあります。

 黒田長政に仕えていた母里太兵衛は、ある日、伏見城の福島正則の下へ使者として遣わされました。福島正則はその日は、朝から酒宴を張っており、酔いの勢いもあってか太兵衛に執拗に酒をすすめました。太兵衛は自他ともに認める酒豪ですが、使者である手前それを固辞していました。

 「飲め。」「飲めない。」「飲めっ!」「飲めないっ!」の押し問答があった後、正則は「この大杯に注いだ酒を見事飲み干したならば、好きな褒美を取らせる。」と言い、さらには「黒田家の者は酒も飲めないのか。黒田家は腰抜け侍ばかりだ。」と黒田家を侮辱する言葉をも放ったのです。主家を侮辱された太兵衛は覚悟を決め、大杯に注がれていた酒を一気に飲み干したのです。続けざまにさらに二杯を飲み干し、名槍「日本号(足利義輝、織田信長、豊臣秀吉の手を経て、正則が所有していた槍)」を褒美として所望しました。いったんは太兵衛の要望を断る正則ですが、「武士に二言は無いぞ。」という言葉を太兵衛に受けては断ることもできず、しぶしぶ褒美として差し出すこととなりました。太兵衛はこの槍を持って、黒田藩歌である「筑前今様」を唄いながら平然と帰路についたとのことです。

 黒田節に唄われているこのエピソードは次の歌詞に盛り込まれています。
酒は飲め飲め/飲むならば/日の本一の/この槍を/飲み取るほどに/飲むならば/これぞまことの/黒田武士
飲めと注ぎ足す/大盃に/干さねば名折れ/意地がある/殿には背く/ことなれど/見事重ねよ/黒田武士
武士に二言は/無きものと/手に取る名槍/日本号/酔足固く/踏締めて/舞うか一節(さし)/黒田武士

岩国藩初代藩主は地酒がお好き? 吉川 広家【1561~1625】

 吉川広家は岩国藩初代藩主にして、「三本の矢の教え」で知られる毛利元就の孫(吉川元春の三男)。関ヶ原の戦いの後、出雲国富田から岩国へ移封されました。毛利元就は父、弘元や兄、興元が酒好きが原因で、体を損ねたり、早世したのに懲りたようで、酒を慎み、あまり酒を飲まなかったようですが、その子元春や広家はかなりの酒好きだったようです。

 1617年に制定した180余条にもおよぶ、領国統治の法度の中で、振舞い酒について「数奇之心持肝要」と行儀を重んじさせただけでなく、「酒一升の値は米二升」、「他所からの酒はいけない、地酒に限る」、「むやみやたらに酒を飲む者は科料に処する」といった酒に関するお触れも出していたようです。家臣たちに振舞い酒を制限したり、大酒を慎ませたりする一方で、自分が下される酒については別枠にしていたと言われています。酒好きだからこそのエピソードです。

「お国は?」「周防岩国の産です」 佐々木小次郎【?~1612】

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 岩国の戦国武将ついでにもう一つご紹介。かの有名な巌流島の決闘を演じた二人と言えば、宮本武蔵と佐々木小次郎。その小次郎と岩国とが遠からぬ縁であるということはあまり知られていないでしょう。
 左の写真をご覧ください。これは錦帯橋近くにある佐々木小次郎の像です。「なぜ岩国に小次郎の像が?」答は簡単。かの有名な「燕返し」は錦帯橋そばの柳の木の下で編み出されたとされているのです。とはいっても吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の中での話のことでして、小次郎が没したのは1612年、錦帯橋ができたのが1673年ですから、残念ながらフィクションのようです。

 また、同小説の中では、周防国岩国(現山口県岩国市)の出身とされているようですが、これもどうやら小説の中での設定のようです。ですが、仮に小次郎が生きているときに岩国地方に足を運んでいたとしたら、吉川広家公の時代だったかもしれません。もしかすると、岩国の地酒が小次郎にも振る舞われていたかもしれませんね。


【参考文献】
 酒が語る日本史/和歌森太郎 河出書房新社
 教科書が教えない 歴史の「その後」/新人物往来社
 戦国武将の死生観/篠田達明 新潮選書
 戦国武将 おどろきの真実/歴史雑学探求倶楽部 編 


吉川公へ捧ぐ。歴史と想像が生んだ贅沢な味

 

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 時は江戸時代。たっぷりの麹と少量の水で醸す、上等なお酒がありました。口に含むと広がる、甘くずっしりとした味。もしかしたら、吉川公も同様の清酒を召されたかもしれません。
そのような浪漫を胸に、当時一番贅沢であったであろう清酒を再現しました。甘く、濃厚な味わいをどうぞお楽しみください。

 

(編集 大下勝己)
 

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