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酒に生きるおやっさん

2008年5月28日(水)

酒に生きるおやっさん

酒に生きるおやっさん
佐々木久子
(鎌倉書房)(1989/05)


大津杜氏 吉永達夫さん
山口県「五橋」酒井酒造株式会社


花冷えの季節から桜が散って、葉ざくらが五月の陽に輝く頃になると、天から緑が降ってくるようなさわやかさに満ちてくる。
ふくよかな甘さを残したさらりとした緑の風……それがそのまま舌によみがえる、「五橋」という銘酒は、そんな表現をしたくなるような美酒なのだ。
醸造元は、山口県岩国氏中津である。仕込水は錦川の伏流水である。

岩国は、かつて吉川侯六万石の城下町として栄えた静かな佇まいをみせる面と、瀬戸内臨海工業地帯の一翼を担う工業都市として活況をみせる面との二つの顔をもつ。
街のほぼ真ん中を山口県最大の河川である錦川が流れている。中国山地の莇ヶ岳を源とする錦川は、市内に入って楠木町付近で今津川(本流)と門前川とに分れ、河口に三角州を形成している。岩国市の繁栄は、この錦川の豊かな清流によってもたらされている、といってもいい。この錦川をはさんで城山の対岸にあたる左岸一帯に残る町並みを歩くと、古き良き城下町が彷彿とよみがえってくる。

私は幼い頃、岩国は広島だと思い込んでいた節がある。何故なら、春爛漫と桜の咲き乱れる頃になると、トラックに花見料理やお酒をたっぷりと積み込んで岩国へと繰り出す。お花見大好き人間の我が家では、大工さんや左官職人さんなどを大挙引き連れて、盛大にお花見をやるのである。錦川にかかる錦帯橋畔の桜並木は実に見事で、風もないのにハラハラと散りかかる満開の桜花の下で、食べ飲み唄うのである。
広島市内にも、花見をするところは幾らでもあるのに、父は専ら、岩国の鏡川畔を愛した。

「岩国のそろばん橋は、そりが幾そり……」母がよく唄った「田はやし唄」である。よく透る澄んだ声で、民謡や流行歌を唄う母に育てられたのだから、岩国のそろばん橋は私の脳裏に強く刻み込まれてもいた。

そろばん橋とは錦帯橋の俗称である。日光の神端(栃木)大月の猿橋(山梨)と共に二本三大奇橋の一つにあげられている錦帯橋は、延宝元年(一六七三)、岩国藩第三代藩主芳川広嘉が架けたアーチ型五連の木橋で、長さ二百十メートル、幅五メートル、巻金とカスガイのほかは一本の釘も使っていない。
宮大工系の棟梁であった父は、職人さんや私たちに、この橋の素晴らしさはとても言葉ではいい表せない、自分で錦帯橋を何度も渡って、自身の肌と心で、日本建築の真髄を極めた橋の凄さを感じとらせようとしたのであった。
錦川が氾濫して交通が絶たれ困っている住民のために造ったというが、吉川侯という殿様は、よほど美的感覚にすぐれた超文化人であったというべきであろう。
この橋に因んで五橋と名づけた美酒は、この土地に生まれるべくして生れた銘酒であったのだ。

現在山口県下には八十五軒の醸造元があるが、稼動している蔵は四十四軒。もともと六百石足らずのおみき酒屋ばかりだったから、その殆どが、灘や広島への桶売りに頼って存続してきた。

ご存知のように山口県は、明治以来、総理大臣を最も多く出している県で「特産物は首相」であるといわれるほど、県民には政治好きな人が多い。岸信介、佐藤栄作両氏の生家も、田布施町で酒造りをやっていたが、ご多分に洩れず小さな酒屋で内緒は苦しかったときいている。

昭和二十二年、全国新酒鑑評会で日本一に輝いた五橋という酒屋に私をはじめて連れていってくださったのは、広島国税局の鑑定官であった増田義実先生である。昭和三十七年の冬であった。当時は四代目にあたる酒井秀人氏(大正四年生・旧制岩国中学卒)が社長で、美酒造りに精を出しておられた。
その時の杜氏は、熊毛杜氏の久次義夫さんで、吟醸酒造りにかけては、山口県随一、このおやっさんの右に出るものはない、との折紙がつけられていた。蔵の中には馥郁たる吟醸酒の香りが満ち満ちており、もぎたてのリンゴのような芳香をかいで私は卒倒しそうになったものである。
あげく、四代目を杜氏さんだと思い込むという大失敗をやってしまった。それほどに四代目は地味で謙虚で、万事に久次杜氏を立てておられたものである。その久次杜氏は昭和五十一年引退され、現在は大津杜氏の吉永達夫さんが、五代目酒井佑氏と共に五橋を醸しておられる。

吉永達夫杜氏は、昭和七年五月八日、山口県大津郡日置町大字日置上に生れた。A型。
大津杜氏は、日置町を中心に、長門市、三隅町、油谷町なお、旧大津郡市町村の出身者の技能集団である。熊毛杜氏は、熊毛郡田布施町を中心に、光市、大和市、平生町、上関町(祝島)など旧熊毛郡の市町村出身者で結成している。

旧長門国と旧周防国と二つの地域から季節労働者として杜氏、蔵人の集団が生れ、県内の酒蔵へ出て働いてきたが、今は、蔵人に出る人も減る一方で後継者難になっている。
大津杜氏の始まりは、藩政時代、日本海側沿岸と上方とを結ぶ西廻り航路の船が時化で大破し、今の油谷町黄波戸港に入港した。その船に乗っていた丹波杜氏が、船の修理に雇われてきた日置町矢ヶ浦の農民に酒造りの出稼ぎ話をした。何か良い仕事はないか、と聞く農民に、酒造りの蔵人として働かないか、と誘ったことから、酒造りの技能集団が形成されていったのだろうと、藤井宏志氏(兵庫教育大学助教授)は醸造協会誌で述べておられる。

昭和二十八年から蔵人として働きはじめた吉永杜氏は語る。
「二十一歳ではじめたわけだが、追廻しは辛いものでした。素足に草履をはいて、寒い冬の蔵中を走り廻らんならんのですけぇ」
どうして長靴をはかないのかしらねぇ?という私の質問に杜氏さんはニコニコ笑って、
「長靴では湯が入ったら危ないですけぇ」

なるほど、なるほど。酒蔵では、冷い水と熱い湯とを交互にあびているような作業が多いわけだから、ゴム長では煮えついたりする。それは命にかかわるほどの危険さなのだ。
昭和四十一年、杜氏になった吉永さんは、島根県や防府市の酒蔵で十年間つとめ、昭和五十一年、久次杜氏引退の後をうけて酒井酒造の杜氏として勤務することになる。
杜氏が変わると酒質が変わるといわれる。それだけに吉永杜氏は造りにくかったのえはないだろうか……。

酒井佑氏が語る。

「吉永杜氏は非常に真面目なので、前のおやっさんと比較されて、ずい分辛かったと思いますね。でも、基本に忠実に、当たり前のことをやればいいわけですから、とにかく私たちの五橋を造ろうや、と言っています」

五代目酒井佑氏は、昭和十八年九月八日、岩国氏中津町一丁目で生れた。A型。

酒井家が酒造りをはじめたのは明治初年のことである。四代目の酒井秀人氏が、佑氏のお父様だとばかり信じ込んでいた私は、ここでも又、大失敗をおかしていたのである。
四代目は、佑氏の巌父の弟さんに当たり、佑氏の父上は第二次世界大戦で戦死されたので、昭和十八年生まれの佑氏は全くお父さんをおぼえてはおられない。加えて、お母様も佑氏が岩国高校三年の時亡くなられた。従って両親との縁薄い五代目は、四代目の伯父秀人氏を実の父親のように慕い、面倒を見て貰った、と語るのである。

そこでハタと合点した。昭和三十七年、初めて五橋を訪ねた時、四代目がひたすら誠実に、どこにも負けない酒を造ることを心がけ地道な商売をしておられたことが……。五代目にバトンタッチをするまでは、酒井酒王を守らなければならない、と思い定めておられたことが、よく納得できた。

五代目は、昭和四十一年、青山学院大学経済学部を卒業し、すぐに国税庁醸造試験所に入って酒造りの研修にはげみ、昭和四十三年五月、岩国に戻って酒井酒造に入社。専務として家業に精励し、昭和六十年十一月、代表取締役に就任。
四代目秀人氏の下で、営業のイロハを学びながら、利き酒コンテストにも挑戦した。勿論、良い酒を利く鼻と舌を鍛えるためである。まず地元山口県下で第一位、次いで中国ブロック大会でも第一位となり、中国代表として全国大会に出場し、決戦の結果、またも第一位で、遂に日本一の利酒名人となった。昭和五十三年のことである。

さすが、門前の小僧習わぬ経を読む、というべきか。三ッ子の魂百までも、というべきか、五橋が日本一になった時、まだ四歳であった佑氏は蔵の中を走り廻って遊び惚け(ほうけ)ながらも、鼻、耳、目、下、肌、五感のすべてお酒の微妙な味わいと香りを体得して育っていたのである。

吉永杜氏は、夏は米作りをやったり、釣りをしたり、ゴルフ場の芝刈りをしたりしているという。口も重くトツトツとした話しぶりにやさしい人柄がにじみでている。

「身体でおぼえるのが一番いいんだけど、てごう(手伝)してくれる人が年年減って、人手がなくなるのが困ります」

とにかく、麹を造るにはまる二昼夜かかるし、寝てはおられないわけで、若い人は根気が続かない。五橋では二十年の体験をもつベテランが三人で麹造りをやっているという。

──何が一番むつかしいですか。
「原料米は毎年変わってくるし、天候も違うし、とにかく一つ一つ大事にして、悔のない酒造りをやるだけです」と言う。

五橋では、原料米の兵庫県産山田錦が少量しか手に入らないので、杜氏さんが自分で山田錦を作っているという。他には、広島県産の八反、県内の五百万石を丁寧に精白して、どの酒も吟醸酒を造るような執念で酒質の良いものを醸しだしている。
「社長が、良い酒のためなら幾らでもお金を出して下さるんで、ありがたいことです」
五代目の佑氏も、地味な人柄である。誠実に情を大切にというのは酒井家の信念とみた。いや、酒井家ではなく、この実のある生き方は藩主吉川侯が代代に伝えられた賜にちがいない。

吉川侯の祖は、毛利元就の次男元春が、吉川家の養子となって吉川元春を名乗り、この跡を継いだ三男の広家が岩国藩の始祖吉川広家である。
毛利家は、山陽山陰十ヵ国にまたがる大大名であったが、関ヶ原の敗北で没落。徳川家康は毛利を潰すつもりでいたが、吉川広家が懸命に哀訴した。広家は、関ヶ原のとき徳川に内通し、毛利の軍勢を動かさぬようにして、家康に対し大功があったのだ。
家康は、防長二州三十余万石を広家に与えることにしていたのに、広家は、自分のことより本家毛利のために、自分を犠牲にして、「自分が頂戴すべき防長二州を毛利本家にお与え下さい」と頼んだために毛利家は長州藩として生き残れたのだという。

骨肉相喰むという下剋上の戦国期に、己を捨てて本家を救うという義侠をみせた吉川広家という武士に、すっかり惚れてしまった。その遺徳を仰ぐ代代の藩主吉川侯は、財政を豊かにし、読書に親しみ、武芸、学問、技術を重んじて、長州藩とは異なるゆたかな岩国文化を築き上げているのである。その遺産が錦帯橋であり、吉香公園、目加田家住宅などである。

五代目の酒井佑氏にも吉川侯の高志がよく伝わっていて、実に気持のいいお酒を頂戴した。緑したたる五月の薫風のように、さわやかで、穏やかで、しっとりした酒質の五橋。
仕込水は、錦川の清浄な伏流水で稀にみる軟水である。蔵の中に、十メートル、三十メートル、四十メートルと三本の井戸があるが、汲めども尽きぬ清水がコンコンと湧き出ている。仕込水を飲んでみると、たちどころに酒質がよめるのだが、五橋もまさしくそうであった。

おやっさんと五代目の息のあった信頼関係は、車の両輪そのもので、決してパンクすることはないとみた。五橋は現在三千五百石、注文に応じきれないという人気を得て岩国を中心とした地域で完売している。
「無理をしないで、原価をかけているのだから付加価値の高いお酒を造って、高くても売れるようにしたい。酒の錦帯橋でありつづけたいと願っています」
渓流釣りが趣味だという、五代目の静かな闘志と情熱に心からの献盃をしたことである。

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